2021年8月23日(月)-9月4日(土)
10:00-18:00 会期中無休
この度、思文閣では、須田剋太の抽象画の世界をご紹介する展覧会を開催いたします。須田剋太は、1940年代のはじめにその拠点を関西に移し、戦後の精力的な活動を通じて国内外に特異な存在感を示した画家です。長谷川三郎や、吉原治良、津高和一、そして森田子龍といった関西の美術家たちとの交流はよく知られていますが、一方で、吉原からの具体美術協会への誘いを断ったことでもわかるように、頑として我が道を突き進んだ無二の画家でした。
須田剋太が抽象表現に本格的に取り組んだのは、1948、49年(昭和23、24)頃から70年代にかけてのことでした。本展出品作品のうち、年記が確認できるものは1959年から65年に分布しており、それ以外の作品についても1960年前後から70年頃までに描かれたものと考えられます。
株式会社 思文閣
1906
埼玉県北足立郡吹上村(現:鴻巣市)に生まれる。
1927
東京美術学校を受験するが不合格となる。その後三度も失敗する。
1934
寺内満治郎から光風会に入るように勧められる。後(1940年)、会員となる。
1935
第二部会に入選するが、同じ展覧会で落選した友人が自殺し衝撃を受ける。
1936
初めて文展に入選する。以降十年に渡り、官展へ出品を続ける。
1941
関西に拠点を移す。
1946
新樹会を結成する。
1948
杉本健吉を介して転石会会員となる。
1949
転石会で長谷川三郎と出会う。この頃から、本格的に抽象表現に取り組む。
1950
兵庫県西宮市御茶家所町34番地に居を移す。
1952
吉原治良、津高和一、森田子龍らと共に現代美術懇談会(ゲンビ)を創立する。
1955
吉原治良、八木一夫、津高和一と共に国際アートクラブ関西支部を結成する。
1967
西宮市の甲子園学院短期大学教授となる。亡くなるまで在職する。
1970
「週刊朝日」連載の『街道をゆく』の挿絵を手がけることになり、司馬遼太郎と共に、日本各地へ取材に出かけた他、モンゴル、中国、ヨーロッパ世界各地をも訪ねる。
1981
『原画集 街道をゆく』を出版する。
1984
自選グワッシュ画集『私の曼荼羅-須田剋太の世界』、自筆文集『私の造型 現代美術』を出版する。
1990
84歳で逝去。
「抽象」(図録34)、紙・岩絵具・パステル、79×60 cm 1964年
1936
昭和11年文展に《休憩時間》が入選する。
1939
第3回新文展で《読書する男》が特選となる。
1947
第3回日展で《ピンクのターバン》が特選となる。
1955
国立近代美術館「日米抽象美術展」に出品。
1957
第4回サンパウロビエンナーレに《不協雑音》など3点を出品。
1960
大阪、フォルム画廊で個展を開催する。
1961
カーネギー国際現代絵画彫刻展に《メタヒヂックな現実》を出品。
1963
国立近代美術館京都分館「現代絵画の動向-西洋と日本-」展に出品。
1964
京都、画廊紅で個展を開催する。
1970
大阪阪急百貨店での個展に具象作品を出品。
1975
兵庫県立近代美術館で「抽象の四人-須田剋太・津高和一・元永定正・白髪一雄」が開催される。
1977
日本橋三越本店で個展を開催する。本格的な具象画復活となり、以降、具象作品の制作は亡くなるまで続ける。
1983
大阪、ギャラリー白で現代画家による書展に出品。他の作家は、斎藤真成、津高和一、元永定正。
1987
埼玉県立近代美術館「文人の書」展に出品。
1989
草月美術館「墨五人展」に作品展示される。他の作家は、中川幸夫、勅使河原宏、津高和一、清水正策。